【タンザニア看護師の価値観について考える】

本当にあった。 

5歳未満の子どもが栄養失調で亡くなる世界。

しかも、タンザニアでも最高峰の国立病院で。

 

「栄養失調病棟」

入院患者は皆、クワシオコールかマラスムス。

細い手足で、お腹が異常に出っ張っている、

アフリカの子どもの写真を見たことはないだろうか?

 

…赴任してまだ2週間弱、

すでに7人もの子どもが亡くなった。

 

そして今、自分の中で、

今後2年弱の自分の存在意義の整理が付かないでいる。

焦って付ける必要もないけど。ポレポレ。

 

タンザニアの5歳未満死亡率は、

1990年の167(出生1000対)から、

2013年の52(出生1000対)へと減り、

ミレニアム開発目標を達成した数少ない国である。

 

自分の行く国「すごいな!」って思った。

統計上、大きな進歩があるように見えたから。

 

…でも現場は、この統計結果を疑いたくなるような現実。

 

朝から循環血液量減少性ショックの赤ちゃん。

酸素投与したいのに、酸素ボンベは空。

早急な点滴投与が必要なのに、ラインがない。

モニターがない。小児用血圧計もない。

AEDももちろんない。

輸血をオーダーしても、固まってる。

 

「ない!ない!ない!」の嵐。

 

そうこうしているうちに、呼吸停止。

医師により、心臓マッサージ開始。

 

この緊急事態でも、看護師は動かない。

ぺちゃくちゃ、おしゃべりに夢中。

 

…慌てて、アンビューバッグを取りに行った。

 

心臓マッサージを行う医師1人。

そして、心肺蘇生を知らない研修医1人。

 

「いない!いない!いない!」の嵐。

 

手を差し出すべきか…

自分がやってしまったら、意味がない...?

でも見せることはできる...?

いやいや、そもそも医療行為は禁止だ...

モノが無さすぎて、諦めてるのか?

責任の所在は...?

 

葛藤の末、、、出さなかった。

現場を知ろう。現実を知ろう。

ありのままの医療を知ろう。

 

死亡確認。

悔しかった。「たら、れば」が止まらない。

 

でも、私が助けたところで、

この国の“看護”は変わらない。

そうやって自分に言い聞かせた。

 

医師よりママに死亡宣告。

ママ、崩れ泣く。

そんなママをも放置。

赤ちゃんもそのまま放置。

 

部外者で無知な私が

勝手な行動はしてはいけない。

感情に流されてはいけない。

 

けど、ただただ放置されている

ママと子どもを見るのはストレスだった。

 

人の「死」はきっと宗教特有なものがあるはずだ。

これが当たり前の国なんだ、きっと。

今は、観察しよう。あくまでも客観的に。

 

看護に正解、不正解はない。

国によっても、人によっても異なる。

私は、4年間の臨床経験から、

愛とユーモアで患者さんの側で寄り添う看護がしたいと思った。

患者さんに教わったとっても大切なこと。

そしてそれが私の伝えたいメッセージ。

別に、受け止めて欲しいわけじゃない。

ただ、紹介したいだけ、こんな看護もあるよ!ってね。

 

でも、そんな看護はここにはないし、

もしかしたら必要ないのかもしれない。

 

限られた人的物的資源の中で、

最大限の治療を行うのは思った以上に難しい。

 

日本の最先端医療を見てきた私は、

医療で人が「助かる」可能性を十分に知っている。

だけど、

設備が不十分な医療環境を見てきた看護師は、

医療で人が「助かる」可能性を知らない。

 

そしたら、看護に対する意見が

大きく異なるのも当たり前だろう。

 

でも、気になるな。

タンザニアの看護師にとって、看護ってなんだろう?

人の死ってなんだろう?

 

…今度聞いてみよう。

 

現地の人が求めていること、

私にできること、

少しずつ、考えていこう。

 

私にできることってなんだろうなー…?

 

少しずつ、考えていこう。

自分の存在意義。

 

昨日は閏年。

閏年に亡くなった赤ちゃんの命日は4年に1度かぁ。

考えたことなかったや。